グイノ神父の説教



B 年 

聖週間 


復活節から


キリストの聖体の祭日まで


聖木曜日
聖土曜日・徹夜祭
復活の主日

復活節第2主日
復活節第3主日

復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
三位一体の祭日
キリストの聖体の祭日


               聖木曜日・主の晩餐の夕べのミサ     200949

   出エジプト1218節、1114節 1コリントの信徒への手紙112326節 ヨハネ13115

    この夜の食事、明日の死、復活の朝は、一つの神秘に必要な段階で、それはイエスの時です。 「この世から父のもとへ移るご自分の時」です。 同時に苦しみと幸せの過越です。 というのは喜びの祭りの食事の最中に、イエスは本当にご自分の受難にはいられます。

    出エジプト記では、エジプト出国の思い出として、毎年祝うユダヤ人の過越祭の典礼的食事の事を述べています。 聖書ではこの祭りの食事を「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる」様に招待者に勧めています。 この忙しさは何故でしょうか? 何故なら、自由の国に向かって自分の民を連れて行く主の過越を祝うからです。 主はご自分の民がやっと奴隷の状態から自由になるのを早く見たいと急がれるのです。

    イエスはまた使徒たちに、罪の奴隷であるこの世を早く救いたいと説明されるでしょう。 「あなた方と共に、この過ぎ越しの食事をしたいと、私は切に願っていた」(ルカ2215節)と言われました。 出エジプトの聖書の箇所で、靴を履くように勧められるのとは異なって、ご自分で僕になられるイエスの前で、皆は裸足になります。 これをどう理解すればよいのでしょう?

    イエスは町の通りにいた貧しい人達の足を一度も洗いませんでしたが、12人の使徒の足を洗いました。 なぜなら彼らは自分たちの生き方として、イエスに従おうと決心し、彼と共に救いの良い知らせを宣言するのを選んだからです。 イエスは手厚いもてなしの態度で、彼を信じた人すべてを父の家に迎える事を示します。 彼は自分の友の僕となる家の主人です。 少し前に話した例え話「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、傍にきて給仕してくれる」(ルカ1237節)を彼は実現します。 イエスは使徒たちをとことん愛しています(ヨハネ131節) が、直ぐに、ユダがイエスを裏切り、ペトロが主を知らないと否定し、他の皆が逃げてしまいます。

  「私があなた方にした通りに、あなた方もするように、模範を示したのである」とイエスは言われます。 ここに私達がミサの食事の間に取るべき態度があります。 キリストの愛のうちに、あるがままの私達を、欠点があり、弱くて、怠け者の私達を承諾する事です。 キリストの御体と御血における私達の聖体拝領の深い意味は、私達と一緒にいる人達に仕えるという意思で、キリストと一致する事です。 ですから聖体拝領は一致の印となるべきです。 キリストの愛のうちに、私達は共同体を作らねばならず、その共同体で私達一人ひとりが他の人皆に仕えるのです。

   イエスは使徒たちの手を洗わずに足を洗いました。 というのは復活の後に、彼らは福音を告げるために、世界中を歩き回る宣教師、証人にならなければならないからです。 自分たちの足を洗われるという事を受け入れたイエスの使徒たちは、イエスが差し出すもてなしを承諾します。 このように、いつかイエスにならって、キリストの愛のゆえに、世の救いの為に自分たちの命を捧げる事ができるでしょう。

    今晩、もしイエスが私達一人ひとりに「私のしたことが解かりましたか?」と訊ねたら、それは私達の共同体の友愛的奉仕と福音の宣言の為に、愛によって責任を取る為です。  アーメン。



                 聖土曜日 復活の聖なる徹夜祭   2009411

                              マルコ161−7節


   ユダヤの伝統に従って、過ぎ越しの夜には、子供たちの中で一番若いものが次のように訊ねます。「なぜ今夜は他の夜とは異なるのですか?」と。 お父さんは「主が私達を奴隷の状態から解放してくださった夜だよ」と答えます。 復活の日に私達の子供たちが「なぜ今日は他の日とは異なるのですか?」と訊ねるなら、私達は、「私達が悲しみと恐れの中にいたときに、主が私達をそこから解放してくださった日なのだよ」と答えるでしょう。

   この日、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、「週の初めの日の朝ごく早く」道を歩いていました。 昔、彼女たちの先祖が信仰をもってした事を、彼女たちも再現していました。 「朝ごく早く」、アブラハムは捧げ物をするために、イサクをつれて出かけました。 もっと後で、神はモーセに、「明朝早く起きて、水辺に下りて来るファラオを出迎えて、彼に言いなさい。 主はこう言われた。『私の民を去らせ、私に仕えさせよ』と」と言います。(出エジプト816節) さらに朝ごく早く、神はご自分の民に、紅海の海を渡らせ、荒野においてはご自分の民をマンナで養われます。

   しかしながら、復活のこの朝、私達はまず、世界の始まりの最初の朝に、「夕べがあり、朝があった。第一の日である。」と主が言われた事を思い出します。(創世記15b) そういうわけで、復活は、創世記の最初に、既に、計画され、宣言された神の救いのご計画の実現です。 復活は神と一つになる私達の人生の頂点の始まりを指しています。 復活は新しい光の下に、私達の人生と私達の選び、すべてを見るように手伝います。 大切なことは、いつか投げ捨てられる恐れの故に、どんな犠牲を払っても、自分の仕事を失う事、すべてを失う事から、自分の命を守ることではありません。 最も大切な事は、愛のうちに神と一致する事です。 何故なら、神だけが私達を護り、私達を救う事ができるからです。 私達の人生の目的は、永遠の命の源である神と一致する事です。

   復活の日の夜明けに、最後まで忠実である3人の婦人が、イエスの虐待された御体に、最後の世話を終わろうと墓の所へきました。 彼女たちは、すべてが既に変わってしまった事を、全く知りませんでした。 墓を閉じていた重い石は、転がされていました。 この石は未来を閉じ、すべての希望は終ってしまいました。 彼女たちは開いている、空の墓の前で、当惑状態に落ち込みました。 しかし、そこには、一人の青年がいて出来事を語りましたが、彼女たちは何も理解できず、恐ろしくなりました。 彼女たちは死者を尊敬する為に来ましたのに、彼女らに告げられた事は、彼は生きておられ、おまけに、復活されたということです!

   彼女たちにとって、すべて突然で、ひっくり返るような事です!  神の神秘のうちに、この世は不確かになり、時と空間は消えてしまいました。 この3人の婦人は突然、どうしても避ける事のできない、目のくらむような幸福の神秘の中に、投げ出されました。 なぜなら、それは神から来たからです。 この思いがけない、未知の幸福は、彼女たちをおびえさせました。 彼女たちは友のために泣きに来たのに、受けたものは満ち溢れる喜びでした。

   音も立てずに、そっと、復活の夜明けは、永遠のうちに、大変動の、そして世界の再創造の夜明けとなります。 どうして恐慌を来たさずにいられるでしょうか?  どうして逃げ出したり、隠れたりせずにいられるでしょうか? これは3人の婦人たちがした事です。  マルコは世を救うこの神秘を説明する為に、自分の福音を次のように言って終わっています。 「婦人たちは、墓を出て逃げ去った。 震え上がり、正気を失っていた。 そして誰にも何も言わなかった。 恐ろしかったからである」と。

   この週の第一の日から礼拝と沈黙の道に私達の心を開く為に神は来られます。 神は私達の恐れが喜びの叫びに変わるように望まれます。 イエス・キリストにおいて神は来られ、死から私達を剥ぎ取られ、罪に繋がれている私達みなの為に、それをほどかれます。 さあ、アレルヤを歌いましょう。 「キリストは復活された! 彼は本当に復活した!」と。 そして、私達の心のうちに、この愛の偉大な神秘を味わいましょう。  アーメン



                   復活の主日      2009412日 

   使徒言行録 103443節   コロサイの信徒への手紙 314節   ヨハネ 2019

     復活を信じるとは、ある意味で、驚くに価することです。 というのは、この言葉が言おうとしていることを、確信をもって説明できる人は、誰もいないからです。 この言葉の下にどんな実態が隠れているかを誰も知りません。 神のうちにあってだけ復活は理解できます。 キリストが復活したと信じることは、神の命である神秘の深みに、信仰によって入っていく事です。

     墓の闇と沈黙とを守らなければならない石・・・死者と生者を分けようとしている石・・・この石は転がっていて、何一つ分割することはありません。 もはや太陽の光線は、墓の内部を照らします。 一人の死者に対して泣いていたこれらの婦人たちは、復活の喜びによって、満たされるままになることが出来ます。 そうです、本当に、ナザレのイエス、十字架に付けられた方は、復活しました

     今朝、彼ら3人はそのことの証人です。 つまり、マグダラのマリア、ペトロと呼ばれるシモン、ヨハネです。 復活の朝に、イエスと、イエスが特別な方法で愛されたこれら3人の間に、一体何が起こったのでしょうか?

   マグダラのマリアは疑いもなく「体の復活」と言われることを、他の人たちよりよく理解しました。 マグダラのマリアが体も魂も癒していただいた人だからです。 彼女は「悪霊を追い出して、病気を癒していただいた何人かの婦人たち」の一人でしたし、彼女自身特別に「7つの悪霊を追い出していただいた」のです。(ルカ82節) キリストに癒されたこの婦人たちは、そのお陰で、イエスの受難の間、キリストと苦しみをともにして歩み、その中にマグダレナのマリアもいました。 昔、マグダラのマリアの人生は恥辱の重荷であり、耐えられない苦悩でした。 今は、彼女の人生は救い、癒されるイエスに向かう、喜びと自由の飛躍となりました。 マグダラのマリアは、復活を理解するには、まず、イエスに癒され、自由にしていただかなければならないと、私達に教えています。

   ペトロは熱列さと矛盾とをもっていて、私達にもっともよく似ています。 彼は「主よ、あなたのためなら私は命を捨てます」(ヨ1337節)と言います。 彼はまたその弱さと悲嘆においても私達に似ています。「お前もあの男の弟子の一人ではないか」というと、ペトロは打ち消して「違う」と言い、(ヨハネ1825節)彼がイエスのみではなく、他の使徒たちに結ばれているもの全てを否認しようとする時です。 それにもかかわらず、ペトロはその兄弟たちの羊飼いとして、イエスが特別に選ばれた人です。 ペトロはイエスの祈りによって他の使徒よりももっと支えられています。 「ペトロ、私はあなたの為に、信仰がなくならないように祈った。 だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」(ルカ2232節)とイエスは言われます。 だから、ペトロは信仰のとても弱い人々を支える為に、キリストのように祈り、行なうでしょう。 ペトロは復活を理解するためには、まず、イエスに赦され、立ち直らなければならないと私達に教えます。

    最後にヨハネがいます。 彼は「イエスを愛した弟子」であるとは言われず、むしろ「イエスが愛した使徒」だといわれています。 その故に、ヨハネは一番大切な事を私達に教えます。 それは私達がキリストに愛されるままにしておくことです。 イエスの眼差しはヨハネの上に注がれますが、それはまたイエスが私達一人ひとりの上に注がれたい眼差しなのです。 そういうわけで、ヨハネは「イエスは世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(ヨハネ131節)と書きました。 イエスは誰もこれまでに愛した事のないような愛し方で、私達を愛します。 ヨハネは復活を理解するためには、まず、神の変わることのない愛を信じなければならないと私達に教えます。

    マグダラのマリア、ペトロ、ヨハネはイエスにおける復活を信じるように私達に勧めます。 イエスがマグダラのマリアを開放されたように、私達を悪から解放してくださるように願いましょう。 イエスがペトロのために祈られたように、私達を強め、私達のために祈ってくださるように願いましょう。 特に、忠実な使徒であったヨハネのように、イエスに愛される事を受け入れ、イエスに信頼される相手となりましょう。 恐れと罪から開放されて、皆一緒にキリストの愛の証人である兄弟たちとの出会いに出かけましょう・・・

    マグダラのマリアやペトロやヨハネと一緒に、「キリストは復活された。 命は死に打ち勝った。 神は王国の扉を私達に広く開いてくださった! そうです。 私たちは体の復活を信じます。 永遠の命を信じます!」と、このよいメッセージを、皆に告げるために、3人の婦人のように走りましょう。 アーメン

                 

                        復活節第2主日    2009419

    使徒言行録 43235節  ヨハネの手紙1 516節   ヨハネ201931

    今日の福音の翻訳は、その箇所を理解する助けにはあまりなりません。 というのはこの理解は「ユダヤ人を恐れて」という記述が、「家の戸に鍵をかけて(閉じられた戸)」という記述に繋がっているからです。 ギリシャ語の聖書では単純に、使徒たちはユダヤ人を恐れて集まっていて、この場所の戸は閉まっていましたと書かれています。 ヨハネの言いたい事を理解するには、イエスご自身の言葉を思い出さなければなりません。 それは「あなたが祈るときは、自分の部屋に入って戸を閉め、あなたの父に祈りなさい」(マタイ66節)というところです。 イエスが復活の夜と、その一週間後に、使徒たちに現れた時、彼らが戸を全部閉めて、共に祈っていたと、ヨハネは説明しています。

    しかしこの文章の文脈では、「ユダヤ人を恐れて」と言う表現は一体なにを意味しているのでしょうか? ヨハネは自分の福音の中で、キリストについて人々が公然と話なすことが出来ないか、または拒否する事を示すために、この言葉を使っています。 例えば、イエスが神殿に来られた時、群集は彼を捜しましたが、「ユダヤ人たちを恐れて」イエスについて公然と語る者はいませんでした。(ヨハネ713節参照) 同様に、イエスに癒された盲人の両親にファリサイ人が質問した時、彼らは「ユダヤ人を恐れて」答えるのを拒否しました。(ヨハネ92122節参照) アリマタヤのヨセフは、イエスの弟子でありながら、「ユダヤ人を恐れて」その事を隠していました。(ヨハネ1938節) 今日の福音の中で、使徒たちが祈るために集まっていた事が分かります。 しかし、「ユダヤ人を恐れて」彼らの間で、イエスについて語るのを避けていました。 何故でしょうか? 使徒たちは福音を証する力と勇気を与える聖霊を、まだ受けていなかったからです。

    他方、ヨハネはイエスが「彼らの前に」現れたとは言っていません。 彼は「彼らの間に、そこにイエスはいた」と言っています。 このようにヨハネは、イエスはご自分の約束「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ1820節)を実現されます。 今日、私たちはイエスの名によってここに集まっており、彼は本当にそこに、私達の間にいます。 しかしイエスは私達が決めた場所と時の出会いに応じられません。 私たちの所へ来られる、そして私達をここへ集める主導性を取られるのはイエスです。 というのは私達はこの彼の約束を信じているからです。

    確かに、使徒たちの経験は独特なものです。 彼らだけが、復活されたイエスのご出現の恩恵に与りました。そして私達の信仰は彼らの証しに基づいています。 しかしながら、私達もまた主との生きた関係を持っています。 「私を愛する者がいれば・・・・・私の父と私、私達は、その人のところに行き、その人と一緒に住む」(ヨハネ1424節)と。

    使徒たちは、まず、「「平和があなた方と共にあるように」という言葉でイエスを認めました。 それから手、足、脇腹の傷を見ました。 トマスは疑った後で、福音の、最も美しい信仰の叫びを後世に残しました。 「わが主、わが神」という言葉です。 トマスは肝心なことは目に見えないものだと分かりました。 キリストの現存の神秘は心の目でしか見えません。 信仰を通してしかイエスに触れる事はできません。 トマスの疑いはまた次のような最も美しい、最後の至福の言葉を言う機会をイエスに与えました。 「見ないのに信じるものは幸いである」と・・・。

    
    イエスは孔雀のように、自分を見せるために私達のうちに来られるのではなく、私達の生きている場所で、宣教に送り出すために来られます。 イエスは、信じる人の心の中に、自分の平和を置かれる事によってご自分を分からせます。 または「まさしく私です」という内面の言葉によって自分を分からせます。 毎日、私達はみ言葉に注意をはらうことで、祈りへの忠実さの中で、礼拝の沈黙のうちに、ミサの時に、ご聖体のなかで、復活されたイエスに出会うことが出来ます。 これが私達の日常生活の中で、本当にキリストが現存される唯一の方法です。 信仰によって、この世を恐れから喜びへと変えるためにイエスの証人になりましょう。 「平和があなたと共にありますように! まさしく私です! 聖霊を受けなさい! 御父が私を遣わしたように、私もまた、あなたを遣わします。」 アーメン。

         

                          復活説第3主日     2009426

    使徒言行録31315節、1719節  ヨハネの手紙1 215節  ルカ243548

    異邦人とギルシャ人は、特に復活を思い描く事は出来ませんでした。 というのは、体は魂の牢獄であって、死は魂の開放であると考えていたからです。 使徒言行録のなかで、ルカは「イエスは苦難を受けて後、ご自分が生きている事を、数多くの証拠をもって示し、」と書いています。(使徒13節) 今日の話しのなかで、ルカは最初のキリスト者たちに、イエスの復活を説明しようと試みています。 彼はイエスがご自分の体をもって本当に現れた事を示すために、信頼に価する証人からもたらされた詳細を伝えています。

    不安におびえ、茫然自失し、震え、恐れると言う反応のすべては、復活したイエスを前にして、使徒たちが経験した明白な部分です。 イエスは彼らの恐怖と絶望の中心に入りこみますが、それは信仰と平和のメッセージを彼らにもたらすためです。  使徒たちは彼らの前に、既に死亡した人が現れたと思い込んで、心の中深くで、動揺しています。 この文脈には、家族的な挨拶「シャローム」「平和があなたと共にありますように」、の意味があります。 彼らの恐怖を追い払う為に、イエスは彼の体の復活の証をふやされます。 イエスは使徒たちを平和のうちに信仰へ導こうとします。

    まず、認めさせるためにイエスは触れられるままにされます。 まさに、これはイエスのなさり方です。 人に近づく為に主導性をとられるのはイエスです。 彼はご自分の手と足を示されます。 彼は「霊には肉も骨もないが、私にはそれがある事を確認しなさい」と付け加えられます。 しかし、使徒たちは驚きに捕らわれたままです。 そこで、イエスは焼いた魚を彼らの前で食べるという、反論できない証しを加えられます。 食べる事、食事を分かち合うことは、生者に特有の事で、死者には不可能な事です。 後で使徒たちは「イエスが死者の中から復活した後、私達はご一緒に食べたり、飲んだりしました。」と述べます。(使徒
1041節)

    使徒たちはキリストに触れ、一緒に食べました・・・しかし彼らはまだ解かりませんでした。 そこでイエスは、あふれるままにご自分の心を話そうとされます。 「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれている事を説明された」とあります。 復活の光に照らして、聖書はその深い意味を打ち明けます。 「私について書かれている事すべてを、実現しなければならない」とイエスは単純に言われます。 しかし彼は「あなた方はこれらの事の証人となる。」と付け加えられます。

    というのは、その時から、あふれる自分たちの心を話すのは、使徒たちの番です。 彼らが見たこと、彼らが信じたことを、この世に宣言するたびに、彼らは復活の証人となります。

    シモン、アンドレ、ヨハネは「湖の岸辺にいて、私達を呼ばれたのは、彼、イエスです」と証言します。 マタイは「税金を集めている私のテーブルの前に来て、『私に従いなさい』と言われたのは、彼、イエスです。」と言います。 ペトロ、ヨハネ、ヤコブは「タボール山で私達に現れ、変容されたのは、彼、イエスです。」と宣言します。 トマスは「受難の前夜、私に『私は道、命、真理である』といわれたのは彼、イエスです。」と証します。 フリップは「最後の晩餐の時に、私に『私を見たものは父を見たのである』と言われたのは、彼、イエスです。」と言います。 エマウスの弟子たちは「そうです。 私達の心を燃やしたのは彼、イエスでした。」と肯定します。 彼の母マリアは
「十字架上でヨハネを示して、『婦人よ、これがあなたの息子です!』と言ったのは私の息子、イエスです。」と打ち明けます。 マリアとマルタは「私の兄弟に『ラザロ、墓から出なさい、』と叫び、彼を命に導いてくれたのは彼、、イエスです。」と述べます。

    今、述べた人たち、皆にとって、イエスは何時も生きています! この証人たちにとって復活は神の愛と慈しみの印です。 彼らの証しと喜びを私達のものとすることができますように! というのは、復活されたイエスと共にすべての人の為に、神の愛を告げることは、今から私達の使命だからです。  アーメン。



                       復活節第4主日      200953

      使徒言行録4812節     ヨハネの手紙1 31,2節     ヨハネ101118

   福音書に書かれていることは、例え話ではなく、イエスご自身とその使命についての比ゆ的教えです。 この教えの中で、行き止まりの閉じられた囲いについて、イエスは話します。 こうしてイエスは、私達の世界、束縛の、罪の、死の囲いの中に完全に閉じ込められた世界について、話します。 主キリストは、行き詰ったこの世の中に突破口を開きに来ました。 彼ご自身、死の狭い戸口を通り過ぎた第一の方です。 その時から、この戸口は、彼の後に続いて、命と自由に向かって私達を導く為に、大きく開かれています。

   イエスはまた、この最終的な通過のために、各自がその名前で呼ばれていると、私達に言われます。 各自は、一人ひとりを個人的に呼ぶ良い羊飼いを知るようになるだけでなく、また私達を良い牧者に委ねた方、つまり父である神をも知るようになります。 キリストは本当の羊飼いです。 と言うのは、彼はご自分のために私達を取りこみもせず、独り占めにもしません。 彼が私達に従ってくるように求めるのは、御父のもとへ導くためです。 実に私達を御子に委ねたのは御父です。 本当の牧者は渡し守のようなもので、私達を彼に引き寄せますが、それは私達を御父に与える為です。 私達にご自分の命を与えながら、彼はそれを行ないます。 ペトロと他の使徒たちは、第一の朗読の中で、「イエスは私達を救う事の出来る唯一人の方です」と、宣言しました。

   預言者エレミヤは、神はご自分の心に適う一人の牧者を私達に与えられると約束しました。(エレミヤ315節)。 預言者イザヤ(40911節)や預言者エゼキエル(341116節)は、この良い牧者の役割を明確にしましたが、彼らのうちの誰一人として、自分の命をその羊のために与えるとは、予想しませんでした。 ご自分の教えの中で、イエスは4回違った風に「私は、私の羊に命を与える。」とか 「私が来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」という言葉を繰り返しています。

   イエスがご自分の命を与えられるから、ギリシャ語聖書では、彼は、「o poimen o kalos」「美しい牧者」と言っていて、「o poimen o agatos」「良い牧者」とは言っていません。 既にヨハネは自分の福音の始めに、(114節)「イエスは優雅さと真理に満ちていた」と言っています。 そういうわけで、カタコンブのキリスト者たちは、何時も牧者であるイエスを、善意に溢れた美しい若者として表現しました。 本当の美しさは何時も愛から生まれるものです。 子供に命を与えるお母さんは、出産の苦しみにも拘らず、何時も美しいです。 十字架上で死ぬと言う怖ろしい苦しみと引き換えに、永遠の命を私達に与えられたので、イエスは美しいです。 あらゆる形の悪と死から私達を奪い取るために、イエスは命を危険にさらし、死にました。 今日の福音の中で、イエスの「美しさ」もまた4回繰り返されます。 それは特にある悲劇とある闘いの宣言です。 可愛いい小さな牧草地、素敵な小さい羊たち、という牧歌的なイメージ、しばしば甘ったるいこれらのイメージは早く忘れましょう。

   確かアヴェルシウスのサインのある2世紀の墓碑銘に、「私は大きな目であらゆるところに届く眼差しをもつ、ある聖なる牧者の弟子です」と書かれています。 キリストもまたこの大きな目の牧者です。 何故なら彼は私達自身が自分を知っているよりもよく私達を知っているからです! そういうわけで、キリストが御父と共有している親密さを私達も分かち合うように望まれます。(ヨハネ1014節) イエスと御父との愛の相互性は、全人類にとって命の泉となるほど、激しいです。 イエスと御父の間に実在する親密で、完全な、この個人的な認識が、皆に広がる事をイエスは望まれます。 この日曜日の典礼の始めの祈りは、単純さと信頼をもって、その事を求めています。 「天の幸せまで私達を導いてください。 自分の牧者が勝利に入られたところまで、羊の群れがその弱さにも拘らず、到着できますように。」 自分が信者だと思う者は誰でも、愛すること以外の召命はありません。 その人は他の人に、神から受けたものを、当然、差し出さなければなりません。 神の愛の認識と隣人への愛の実で、キリストご自身のように、皆が美しくて善いものになりますように! アーメン。



                  復活節第5主日    2009510

     使徒言行録92631節  ヨハネの手紙 1 31824節  ヨハネ1518

    この話は最後の晩餐の後に行なわれました。 イエスは、ご自分の御血で新しい契約を結ばれたぶどう酒の杯を、使徒たち一人ひとりの間で、手から手へと回されたばかりです。 ユダはイエスを引き渡す為に立ち去りました。 イエスは別れを告げられて、ご自分の使徒たちに最後の勧告を与えられます。 イエスがいなくなってから、弟子たちや彼を信じる人達皆が、どんな風に生きなければならないかを 説明する目的で、彼が使われるのはぶどうのシンボルです。 たとえ彼がいなくても、彼と共に本当の一致のうちに、皆、非常に近い関係の中に入らなければならないのです。 「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶ事ができないように、あなたがたも、私につながっていなければ、実を結ぶ事ができない」(ヨハネ154節)弟子たちと教会の豊かさは、キリストとの親密さ次第です。

    主と繋がって留まりながら、キリスト者は実を結びます。 イエスに私達を一致させる繋がりは御父を御子に一致させるものと同じ性格のものです。 この性格は同じ命の流れ、同じ生命力(樹液)、同じ愛です。 ですから、使徒たちの間で 手から手へと、血の杯を回しながら、イエスはそれを具体的に示そうと望まれました。 イエスが求められた要求の第一のものは、イエスと私達の係わりに関するものです。 それは信頼に根付いた命の繋がりです。 キリストと共になるこの唯一の親密さは、聖書におけるみ言葉に、頻繁に、熱意をもって触れること、秘蹟に近づくこと、毎日の祈りで養われた人生によってしか生まれません。 「人が私に繋がっており、私もその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」(155節)「あなた方が豊かに実を結び、それによって、私の父は栄光をお受けになる」(158節)

    私達は木の幹の樹液を受ける枝です。 その枝は幹に結びついています。 もし一つの枝が幹から離れるなら、渇いて死んでしまいます。 このように、洗礼を受けたものが、キリストの影響から身を引く時、キリストの御血によって潤されないままにするなら、自分に死刑の判決を下すようなものです。 何という不幸でしょうか! キリストは溢れるほど豊かな命を私達に持ってきて下さったのに・・・! イエスは私達の実存、成長、私達に実をもたらすものを保証するぶどうの木の株です。 洗礼を受けた人の人生は、木の樹液の歩みの歴史です。 それはつまり、日々、私達のうちで、永遠の流れの上昇の障害となるものを取り除きながら、私達の血管を流れ、私達のうちでゆっくりと発展していく神の歩みです。 これらの障害から私達を解放するのは、イエスのみ言葉です。 「私の話した言葉によって、あなた方は既に清くなっている。」{153}

     ぶどうの若枝を刈り込むとは、涸れた枝や、樹液の力を奪い、期待されている実をもたらす妨げとなる余計な植物を取り除く事です。 良いぶどう栽培者である神は、ご自分のぶどう畑を愛され、それが美しくて、非の打ち所のないように望まれます・・・ ですから私達は、全ての無益なもの、私達をキリストから離すものを取り除く為に、神の手をとても必要としています。

    私達が栽培しなければならない最も貴重な実は、祈りの中で受け取るものを承諾する愛の実です。 私達を神に向け、人々に向けるものは、この愛であると、ヨハネは自分の手紙の中で書いています。 それは「キリストが私達に命じられたように、互いに愛し合う事です」かつ「彼が私達を愛したように」と。(ヨハネの手紙1,323節、ヨハネ13,14章参照) キリストの弟子は、もし隣人に対する自分の愛が、言葉だけではなく、行いにおいて実行に移されるなら、その人は本当に神の内に留まると知るでしょう。

     祈りとみ言葉を聴くことで、ぶどう畑の若枝のように、キリストの枝として、キリストとの一致に留まるでしょう。 「行ないと真理において」神と隣人への愛の証人となりましょう。 信じることでは足りません、言うことでは足りません。「愛をもってし」なければなりません、実を結ばなければなりません。 実を結ぶとは、愛と赦しと分かち合いの具体的な行いをすることです。 このようにして私達は、本当にイエスの弟子になるでしょう。 アーメン。

                   
  

                     復活節第6主日   2009517

    使徒言行録 102448節  ヨハネの手紙 1 4710節  ヨハネ 15917

   ヨハネ、イエスのこの親しい友は、どんな風に愛するかを彼、イエスから学びました。 愛について話すために、イエスから啓示された真実を拠り所としています。 それは、イエスが御父に愛されているように、私達は神に愛されているということです。 どうして私達は神に愛される事が出来るでしょうか? 私達は罪人で、欠点が一杯あり、弱く、時々卑怯者なのに・・・?  これは神秘です! そうです。 神は私達の弱さ、放棄、否定、信仰の欠如、神に対する習慣的な冷淡さにも拘らず、私達を愛しています。

   ではどうして、神の方から私達に対してこれほどの愛が注がれるのでしょうか?  理由はこれです。 私達は神の限りなく愛する子供で、神に似せて造られ、神のイメージです。 神は私達のうちに、ご自分の完全な美しさ、完全な良さ、その聖性をご覧になります。 たとえ、ご覧になるものが、私達の罪のせいで、無残に変形していても、私達のうちに喜びを見出されます。 神は御子イエスがご自分の血と命とを引き換えに、私達を贖い、救われた事をご存知なので、私達を愛されます。 神が私達を愛し、私達に喜びを見出されるのは、イエスの愛が私達にとって、赦し、癒し、憐れみ、永遠の救いとなったことをご覧になるからです。 神が私達を愛されるのは、ご自分の愛とイエスの愛が、私達の体と魂を養い、それを変容し、愛の完成に導こうと決められたからです。

   しかしながら、イエスは何故、掟として愛を語られるのか私達は自問します。 「私があなたがたに命じる事は、あなた方が互いに愛し合う事です」と。 命令によって愛する事が出来るでしょうか?  愛は自然発生的なものではないでしょうか?  しかし、イエスは「あなたに命じる事をするなら、あなた方は私の友である」と強調されます。 ここに、キリスト教的愛の独創性があります。 これは掟ですが、個人的な決心から生まれた愛で、その決意の実りです。 さもなければ、私達の敵を愛し、私達に悪を行なう人のために祈るように要求するイエスのほかの呼びかけをどのように実現すればよいのでしょうか? 愛するとは、熱情と望みの問題であるだけではありません。 神が私達を愛するように愛するとは、一つの選び、一つの決意であると同時に、実現への挑戦でもあります。 そういうわけで、私達が参ったと言わないように、聖霊の力を溢れるほど与えられます。

   初代教会のキリスト者にとって、この相互の愛の掟が実現の易しいものであったと考えてはなりません。 聖ヨハネが書いた時代は、争いや紛争が絶えることなく、度々暴力的でした。 キリスト者になったユダヤ人は、神殿やユダヤ教の会堂から締め出されました。 このキリスト者になったユダヤ人は、今度は彼らの番で、キリスト者になった異邦人を無視して、差別し、(第一朗読参照)その上、残念ながら、キリスト者の宗派は増加しました。 これらすべての争いの只中で、ヨハネはイエスの言葉を繰り返して思い出しています。 「私の掟は、あなたがたが互いに愛し合う事である」と。

   聖霊の助けによって、多くの困難にも拘らず、初代教会のキリスト者たちは、相互の愛について賭けをしました。 彼らが示した相互の愛は、本当に現実そのもので、そのことは目につきます。 今日、イエスは私達が同じ事を実現するように招きます。 イエスは私達に「試みなさい! 一回だけでよいから、私があなた方に言ったことを真面目に取りなさい。 そして見てごらんなさい。 あなたは実りをえるでしょう。 あなたは命を与えるでしょう!」と言います。 人間としての暖かさの欠如から、私達は、今、まさに死のうとしているこの世の中に生きています。 何故なら一人ひとりが自分自身のために生きているからです。 「愛しなさい」と私達にイエスは言われます。 そしてヨハネは今日の福音のなかで、「愛する」「愛」「友」という言葉を11回繰り返しています。 理解しやすいこの言葉は、イエスが使徒たちに話しかけた「別れのメッセージ」をまとめています。 これは、恐れに直面しての信頼の言葉、死と対面する希望の言葉です。 ご自分の愛の掟によって、イエスは私達のために、永遠の命の門を開け、私達をご自分の友とし、全ての人を、イエスが愛したように愛する兄弟とします。 アーメン。

    

                  主の昇天の祭日  B年  2009524

    使徒言行録 1111節  エフェソの信徒への手紙 4113節  マルコ101520

    一見して、マルコは二つの矛盾した反論で福音を終わっていると言えます。 天に昇られたイエスは神の右の座に着かれたと断言してから、次いで、イエスは私達と共に働かれる為に留まると、急いで言います。 このように書きながら、マルコはキリストが目に見える体の状態であった時、場所と時間の制限を受けていたが、今、彼はあらゆる時間、あらゆる場所に現存していると私達に理解させようとします。

    ご昇天は私達に復活の神秘を理解させます。 イエスは、私達に内面的で限りなく、普遍的な現存を与えるために、ご自分の外面的な、触れることの出来る目に見える現存を私たちから奪いました。 イエスは聖霊の賜物の中に、福音の宣言の中に、彼の名によって秘蹟を受け、祈る共同体の中に、相互援助、分かち合いと愛の業すべての中に、留まり続けます。

    ご昇天は又私達に聖体の深い意味を理解させます。 イエスは私たちのうちにいたいと望まれるので、もはや傍らにいる必要はありません。 彼は歩んでいく私達の力なので、もう私たちの道の道連れにはなりません。 彼は私達の眼差しになったので、もう見る必要がありません。 彼は私たちの命になったので、もはや人が触れることの出来る親しい友にはなりません。 彼は私たちの愛の力になったので、もはや私達の友である必要はありません。 彼は私たちの言葉になったので、もはや話し相手ではありえません。 キリストは私達の内に、私たち自身よりも、もっと私たち自身になりました。 イエスは天に昇られます。 しかし彼は私たちに地下深く根を張らせます。 彼の体と血を頂く事なしには、彼が私たちに与えた使命を完成することが出来ません。 ですから、この時から、周りの兄弟のあいだで、私たちはキリストのユニークな現存とならなければなりません!

    「世界中に行きなさい。 すべての造られたものに福音を述べ伝えなさい。」 イエスは私のうちにいて、私達の手、足、目、唇、心と知恵によって、人々と出会い、愛し続け、全ての人間を救いたいと望まれます。 聖アタナシオは自分の説教の中で度々「人が神になるために、神は人になられました」と言う言葉を繰り返しました。 御父のもとへ帰りながら、ご自分の肉の体、復活したご自分の体で、イエスは私達を神化されます。 彼は全人類を買い戻して、三位一体のまさにその核心にまで入らせます。 この愛の神秘を説明する為に,教皇聖レオT世は「キリストの昇天は私達の昇進である」といいました。

   そうです。 キリストの昇天は私達に神ご自身の広さを与えます。 「世界中に行きなさい」とイエスは求められます。 私たちは神が人々を愛したように愛するために、他の人に出会いに行かなければなりません。 私たちは彼らの傍にいて、彼らを救いながら、ご自分の栄光を着せたいと望まれる復活したキリストの、目立たない現存でなければなりません。 この祝日に当って、喜び、希望、感謝が私達の内に満ち溢れますように! 愛によって私達の為に神がなさったことを、世界中に告げる使命を私達は受けました。 私たちに約束された最も美しい運命は聖パウロが宣言している事です。「神はキリスト・イエスに結ばれた私達をキリストと共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェゾ26節)と。 この良い知らせが、私の生き方を輝かせ、新しい飛躍を与えますように! 疑いもなく、福音の中で語られているように、一度ならず、私たちは誹謗、軽蔑、打ち捨て、無理解の毒を飲まなければなりません。

    しかし今日、私達の追い出す悪霊は、利己主義、自己愛、投げやりなどです。 今こそ、硬い心を新しい心とするために変えられる神の新しい言葉を、私たちは話さなければなりません。 今日こそ、悲しみ、孤独で、苦しんでいて、絶望している人々を癒さなければなりません。 今日こそ、不当、不道徳、非人間的な組織や方式などの蛇をすべて、しっかりと掴まなくてはなりません。 恐れないで、喜びのうちに留まりましょう! 毎日、世の終わりまで、イエスは私たちと共にいられます。 アーメン。



                      聖霊降臨の祭日    2009531

  使徒言行録2111節、ガラテヤの信徒への手紙51625節、ヨハネ152627161215

    ヨハネの福音書は、長い裁判のようで、目的はイエスの由来と使命について、真理を探求するものだと考えられています。 そこで、いろいろな証人が次々と現れます。 洗礼者ヨハネ、ニコデモ、ローマの百人隊長、サマリヤの女、中風の人、生まれながら目の見えない人、ラザロなどです。 しかしイエスの最も良い証人は聖霊です。イエスは去っていく前に、この上もなく優れた証人を送ると弟子たちに約束します。 「御父から生じるこの真理の霊は私の最も気に入る証をしめすでしょう」と。

    ヨハネの証によれば、この聖霊には色々の役割があります。 弟子たちのそばに遣わされ、イエスの現存の継続を保証します。(1416節) 守護者のように、誤りと悪の世の影響に対して戦います。(168節) 真心のこもった人のように、イエスの言葉と行いを理解し、生きている時の思い出を守るように助けます。(1426) 最後に、教育者のように完璧な愛を与え、ことごとく真理へ導きます。(1613節) イエスは聖霊に「パラクレトス―弁護者」と言う名を与えます。何故ならその役割は、不正にキリスト者を非難する人々に対して、迫害されたキリスト者を防御する事です。 あらゆる時代の殉教者たちは、聖霊のうちに、復活したキリストの証を宣言させる確信と力を汲み取った事でしょう。

    ユダヤ人にとって、ペンテコステの祝いはエジプトを出発した後50日目の五旬祭を思い起こさせ、神がシナイ山において、モーセに十戒を与えた日です。 神のみ言葉を受けながら、ヘブライ人は神の民として生まれ変わりました。 この民は神の権利と同時に人の権利に基づいて形作られました。 私たちキリスト者にとって、ペンテコステ(聖霊降臨)は復活の後50日目に、イエスの弟子たちに、み言葉が豊かに与えられた日です。 世界中のあらゆる言葉で、救いの良い知らせを宣言しながら、弟子たちはキリストの教会として生まれ変わりました。 この教会は、神の栄光に照らされ、聖霊の力に満ちて歩む教会として形作られました。

    私達が「私は主であり、命の与え主である聖霊を信じます」と宣言する時、聖霊の中での私たちの再生は一日では作られず、一生涯かかるという事を、断言します。 そういうわけで、赤色は聖霊降臨の色です。 聖霊の祝日は命の血のような赤色、神の愛の象徴である赤色、殉教者たちの流す血の印としての赤色です。

    「イエスは弟子達に息を吹きかけ、聖霊を受けなさいと言われた」(ヨ2022節)とヨハネは報告しています。 人間の創造を思い起こさせるこの行為をヨハネは覚えていました。(創世記27)  この息はイエスご自身の呼吸で、復活されたキリストの命の息です! キリストの呼気を通して、聖霊は新しい創造を始めます。 その役割は世界中に復活の芽生えを広めます。 聖霊は特に私たちに神のセンスと味を与えます。 たとえ私達がそれを認めなくても、聖霊は全ての人が毎日神の命に近づく事を許します。 キリストの息は神において、神によって、神の聖性に生きるために聖霊を私達に与えました。 私たちの霊を神の呼吸に一致させながら、パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で描いているような実を結ぶように、聖霊は助けます。 それは「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ52223節)です。 高いところから来るこの力なしには、「人の中には罪のないものはいません」と聖霊降臨の続唱の言葉は語っています。 ですから、絶えず、「この霊こそが私達の霊と一緒になって、私達が神の子供である事を証して下さる」(ロマ816節)ために、この恵を願いましょう。 アーメン。



                     三位一体の祭日    200967

      申命記432-40節     ローマの信徒への手紙814-17節    マタイ2816-20

    ずっと以前から神は人々のうちに住みたいと望まれていました。 神は自分の名前が「インマヌエル」つまり、「私達と共にいる神」だと明かしました。 イスラエルの民の長い歴史を通じて、神はだんだん近くなってきました。 ところが、ヨハネが自分の福音の最初の数行に説明しているように、「神は自分の民の所へ来たが、民は受け入れませんでした。」 しかしながら神はご自分の約束を忠実にまもられ、世の終わりまで私たちと共に居ると、イエスを通して断言されました。

    残念ながら、イスラエルの民のように、私達も、神のこの現存を忘れています。 私たちはあたかも神が永遠に不在であるかのように生活しています。 私たちの心の中に住み、私たちを生かしてくださる方について、度々考えません。 聖体の素晴しく具体的な印を設立することで、主はご自分の存在を目に見え、触れることの出来るものにしたいと望まれました。 それにもかかわらず、私たちは無関心であるか、あまり感謝しないかです。

    御父、これは宇宙の起源であり源である神の神秘です。 御父、これは愛で包み込みながら、ご自分のイメージとして人間を作られた神です。 神は、人間をご自分と向かい合った者とするために作られました。 御父は目に見えないままですが、神の神秘は 私たちを造られたもの全てと 全人類とに一致させます。 御父は一人ひとりをその名前で呼ばれます。 信頼と勇気を与えるために、何時も先頭に立って 私達を活動させ、歩かせるのは、御父です。 御父への信仰は知識ではなく、人生の物語りであり、発見の道です。 というのは、御父は御子イエスの人生の歴史の中に自分を示され、イエスご自身が御父に向かう道です。

    御子、これは私達に近い者となる神の神秘です。 それは、人間の顔を借りて、私達と出合い、ご自分の心で私たちに語られる神です。 御子は私たちに神が傷つきやすい方であると明かします。 私達への愛によって、イエスは苦しむこと、死ぬ事を受け入れました。 イエス、それは聖霊によって,乙女マリアの胎内に宿られ、肉を取られた神の神秘です。 しかしイエスの体は今日、教会です。 それは、ここに集まっている私たちで、父と、子と、聖霊の名によって、御ひとり子のうちに、一つの体、一つの心、一つの魂となるためです!

    聖霊、これは私たちのうちに生き,祈っている神です。 それは、内面的に、私たちを導き、私達の心や、私達の行動や、考えを変える神です。 聖霊、それは赦し、癒し、清め,聖化する神です。 聖霊、それはあらゆる物を新しくされる神の神秘です。 私達の自覚を呼び起こす神、私達の自由と責任を教育する神です。 聖霊、それは私達に、ご自分の平和と喜びと共に、ご自身を与えられる神です。 この喜びとは、「誰一人として私達から奪えないものです」(ヨ16-22

    父と子と聖霊は、昔のアブラハムの3人のお客様のように、今日私達のもてなしを求められます。ですから彼らを受け入れる時間を作りましょう。 彼らと共に、三位一体の愛の神秘に入り、神と共に、神の内に居る喜びを味わいましょう。 特に御聖体という食事のうちに、力を回復しましょう。 その時、私達は、神が私達のためになさった全ての不思議な業を、世に宣言しながら、神の国に向かって、私達の歩みを続ける取り戻す事が出来るのです。 アーメン。



                       キリストの聖体の祭日    2009614

     出エジプト記2438節  ヘブライ人への手紙91115節  マルコ1412162226

    キリスト教時代の始めから、人々は主の最後の晩餐を祝っていました。 キリストの体の祭日の典礼は、教皇ウルバノ4世の要請で、聖トマス・アクイナスによって、1263年に作られました。 この時代は特にキリスト信徒が殆ど聖体拝領をしなかった時で、教皇は聖体に対する具体的な実践を回復させたいと望み、聖体の秘蹟による恵を信徒達に再発見させたいと望まれました。

    よく知られているように、世界中の至る所で、有名な人の記念建造物を建てています。 道路や、公園や、空港などに彼らの名前をつけることさえしています。 これは未来の世代の人々に、思い出させる一つの方法です。 イエスもまた、この世における彼の現存の具体的な印、彼の思い出や無限の愛を永久に留める印を残そうと望まれました。 私達の人生を豊かにし、美しくする事のできるこの印は、聖体です。

    福音は私達に度々食事をしているイエスの姿を見せます。(カナの婚宴の食事、徴税人や罪人と共にする楽しい食事、ファリサイ人と一緒にする公式の食事、ラザロの家での内輪の食事、勿論、青草の上で、群集と共に取るピク・ニックも・・・) イエスは度々招待されましたが、ときには彼が招きました。 これら全ての食事の中で、最も印象的なものは、祭りの食事、つまりユダヤの過ぎ越しの食事、最後の晩餐です。

    「私の引き渡された体・・・私の流された血」 キリストの言葉は直ぐにおきる彼の死の告示ではなく、その死の完全な実現です。 イエスは何時間か後に、彼自身が行なわれる自己献身を、すでに効果的で実際のものとされます。 イエスの言葉を実現する神秘は、時間と空間の境界を打ち壊します。 この神秘は全ての人にとって、あらゆる時に、あらゆる場所で、今日的な事実です。 このようにミサの奉献の言葉によって、キリストの受難と死と復活を記念する時、私達は過去を思い出したりなどしません。 むしろ、信仰と秘蹟の恵みによって、キリストが苦しみ、死に、復活されるこの時をこそ、現実に生きるように、私達は招き入れられます。 このように私達はキリストの死に一致しながら、彼と共に復活します。 新しい契約の秘蹟とはこれです。 これはキリストの命の権能に一致する事であり、神と共に完全に結びつく事です。

    イエスは世の救いは、ペトロの忠実さ、トマスの勇気、ヤコブの苦行、ヨハネの神秘主義によるとは決して言いませんでした。 イエスはただ、聖体の秘蹟に対する彼らの信頼について言いました。 「私の記念としてこれを行ないなさい」と。 さて、私達は時々「今日は,良いごミサだった」と言います。 あたかも私達によるものであるかのように...「オルガニストは上手に弾けたし、聖歌隊も良く歌いました。 侍者も沢山いたし、司祭も良い説教をしました」とえらそうに言います。 しかしミサは何時も良いし完全です。 それは神の恵みだからです! 私達は唯単純に、神のこの恵を受け取り、自分達のうちにこの恵を納め、私達の日常生活のうちに、それを復元すれば充分です。

    実際、もし私達がキリストの体を戴くなら、それはイエスに似たものとなる為です。 もし私達がキリストの血を飲むなら、それは私達の人生をイエスの命と結ぶためです。 「あなたが受けたものになりなさい」とアウグスティヌスは聖体を分配する時に言うのが常でした。 キリストの体と血を拝領するとは、彼の命に入り、彼の受け入れの態度を繰り返し、出会う人々と共に真実の態度を持ち、苦しんでいる人や打ち捨てられた人に近い者であることを承諾する事です。

    聖体、それはイエスが私達の真ん中に存在することです。 つまりキリストは私達一人一人にご自分を与えようと準備しています。  それは、 イエスと私達との間にあるつながりが、出来るだけ完全であるためです。 そういうわけで、ミサは義務ではなく、必要不可欠なものです。 私達の知恵にとってなんという神秘でしょうか! 私達の信仰にとって、何と言う挑戦でしょうか! 主のこれほどの恵を評価するには、真実の愛で愛さなければなりません。 アーメン

                 


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